gomami15sai’s diary

記録及び雑記

『天気の子』世界とは

『天気の子』を見ました。公開から3日目くらいで見ましたがいまさら感想がまとまったので。ネタバレ控えめでいきます。

 

前作『君の名は。』が誰にとっても大団円で終わりました。三葉にとっても瀧にとっても、さやちんにとってもてっしーにとっても、奥寺先輩にとっても司にとっても高木にとっても。だって隕石が落ちて死ぬより、生きて就職したりあの人と再会したりする方がいいじゃないですか。

ですが今作は帆高と陽奈にとっての大団円で終わりました。2人は世界よりお互いのために生きていくことになります。それこそ、「世界の形を変えてしまう」くらい。2人にとって世界は「生きていく環境」ではなく「自分たちのために存在するもの」だったかもしれません。帆高は陽菜のために、陽菜は帆高のために生きていく。

一週間か一月か、あの短い時間で彼らは確かに変わりました。「世界を変えてしまった」と思うくらい。物理的にも、精神的にも。

3年で東京は沈み、帆高は卒業し、陽菜は高校生になり。彼らが変えたのは「世界の在り方」ではなく「自分たちを取り巻く環境」です。そもそも変わったのは2人が出会った瞬間かもしれません。帆高が家出をしなければ、陽菜が鳥居をくぐらなければ、2人が逃げなければ「2人の世界」は変わりませんでした。

でも2人はもう大丈夫。3年雨が降り続いた東京が晴れ、再会し、「僕らはきっと大丈夫だ。」と確信したから。

 

これは賛否両論ある作品だと思います。でも私は賛しか送れません。私が見た『天気の子』は帆高と陽菜の2人の話だからです。2人のために存在する世界を映像化した作品だからです。否の意見を示す人は、人類にとっての世界を著した『天気の子』を見たんでしょう。

そもそも人類にとっての世界とはなんでしょうか。天気は天の気と呼ばれる世界?全てが科学で証明できる世界?自分のためにある世界?それは誰にも分からないでしょう。ですが帆高と陽菜の2人にとっての世界は「お互いのためにあるもの」なのです。須賀さんが言っていたように「世界は狂っているくらいがちょうどいい」。これも世界の1つでしょう。ですが2人の世界はお互いのために均衡が保たれたもの。元々狂っていた世界は2人が出会ったことで歯車が合い、動き出したのかもしれません。

 

 

長々と書きました…。この作品は劇場の大画面で見て、大音量で聴くべき作品です。1年後に見てもここまで感動しないでしょう。ぜひ劇場に足を運んでください。